あくまでも、持論ですが、子育てについて疑問に思う事が、沢山あるなって思っているんです。
特に、子供達の学力云々よりマナーと言う躾です。
本当に大切な事を教えているのか?と思ってしまう事が、多いと思うのです。
我が家にも既に、成人した子供がおります。
その子供を育てしている時に常に思っていた事は、世の中で困らない常識を身に付けて欲しい~!と思いながら育てていました。
世の中が、目まぐるし変化しても大切な事、マナーが根底から変わる事は、有りません。
マナーとは、常に誰から何処から見ても同じだからです。
だけど、今の世の中、きちんとマナーを理解出来ない人が多すぎて驚かされるばかりです。
先日も私の兄の息子が、地元を離れ、都会で1人暮らしを始めたんだけど、と、その様子を心配する私の母親から連絡が入りました。
私の甥っ子は、中学を数日しか出席していない所謂不登校で、ほとんどきちんと授業を経験していないのです。
沢山のイジメにあい、辛い辛い中学生活だったと、思うんです。
だけど、常に他責にしていて本当に解決出来無いと、思うので私や私の母親は、折に触れ一緒に解決して行こと、兄夫婦に語りかけるのですが、『学校が悪い!教師が悪い!生徒が悪い!』と、言うだけで解決しようと考え無いのです。
兄夫婦からしてそんな考えですから嫌々学校なんか行かなくて良い!と言う言葉を楯に結局、中学生活は、ほとんど家の中から出る事なく終わりを迎えたのです。
もちろん、イジメはいけません。
しかし、そうして、学校教育を学校でさせなかったのなら責めて親が、徹底的にフォローしてやるべきだと思うのですが、まるで放り投げ。
息子以外にも妹がおり、この妹は、トラブル無く学校教育を受けているのだから、やはり悪いのは、息子の環境だったんだ!と思いたかったのでしょう。
しかし、やはり、勉強と言う遅れは、強いては息子自身が苦しむ事にるのだから、義務教育の教育は、自宅でもやるべきでした。
しかし、やはり、兄夫婦は、そうした事も無くダラダラとした生活を過ごしていました。
しかし、息子自身は、家が好きで、家に居たわけでは無いので、しばらくすると息苦しさと、時間だけが有る生活に嫌気が刺してしまい、心機一転したいので、地元を離れて、1人で暮らしたいと、兄夫婦に言い始めるのです。
しかし、沢山の人がいる環境に馴染めない!と思い込んでいる甥っ子は、直ぐに諦めて又、ニート、生活を繰り返すのです。
たまりかねた私の母親が、甥っ子に声かけをしても返事もしない有り様。
だけど、この甥っ子が、しばらくニート生活をやりつくしたのか?とにかく、心機一転都会で活躍したい!と、言う言葉に、兄夫婦は、今迄此処まで言い続けた事が、無い息子が頼むのだから、余程思う事が、有るんだわ~!と、言う事になり都会にマンションを借りて1人暮らしを始めた!そうです。
人と会話を避けて来たのですから、先ず挨拶しない。
簡単な漢字も読め無い。
計算も苦手、、、!と心配する私と私の母親の言葉等届かない兄夫婦。
どうする事が、大切なのか、1人気を揉む私の母親。
私は、私の母親に『教育の中で、本当に大切なのは、心だと思うから責めて躾、マナーを教えてね』と、母親に言いました。
が、私の母親も意味が、理解出来ていないのです。
勉強さえ出来ていれば!と、しか言わないのです。
こんな事では、上手く行く訳が、無いと、思いますが、理解出来ないのです。
私の息子、この甥っ子と3つ違い!ほとんど、同じ時期を生きているのでその年頃に流行った事等、わかります。
ですから時折、私の息子が声をかけるのですが、『君が、話すなら聞いてあげる』と言った調子でかなり屈折している感覚が怖いと言う始末なんです。
朝、起きたら先ずは、家族同士の挨拶!おはよう~!食事の時は、頂きます~!等、きちんと会話を今からして欲しいと思いますが、意味無いと、言うのです。
私は、自分の兄夫婦の家庭を見る度に、世の中に、躾さえ受けられないで過ごして来たんだろなぁ~と、つい思いたくなる様に思える光景が、散乱していると思えるのです。
電車の中で、化粧をする高校。
公共の乗り物中でも、漏れて来るガンガンの音響の音楽。
親も子供も携帯に夢中で歩きながらの携帯いじり。
時には、自転車に乗りながらの操作を見かけたり!躾は、先ず人の為でなく自身の為に有る事。
また、1人1人がきちんとマナーを守る事で平和が保たれる事。
をきちんと教えてあげたい。
だけど、本当に解決したいなら先ずは、親からだと思いました。
親が子供の前で、人の悪口ばかりはなす。
話す話題もそれぞれが今聞きたい事だけで、例え親子でも、関心が無いから無視できるんです。
全てが、わからないから平然と行われているんです。
人間として生まれて来た意味や価値を理解していないのです。
私の心に有る子育て論は、一緒に子供と成長する。
と思っています。
しかし、ある程度の基本となると、挨拶や人を慈しむ気持ちは、親がきちんと教えてあげるべき事だと思うのです。
子供の話しを沢山聞いてあげて、子供の言葉の意味と又、思いを知る。
正しい事とそうでない事の意味等沢山有ると思うのですが。
私も息子とケンカをする事は、あります。
成人してからは、ぐんと減りましたが、あらゆるバトルをして来ました。
しかし、息子が必ず言う言葉が有るのです。
『間違いをしっかりと根気よく諦めずに教えてくれたから、迷った時に、深呼吸して『母さんなら今どうするかな?』と、お母さんが選ぶだろう道を選ぶ様に出来、また選ぶ道が、間違い無い!と信じて生きれている』と言ってくれる様になった事でした。
私の息子も1人っ子と言う事も有り常に私が、かまい続ける煩わしさから、あらゆる反発をしていた時期が、有りました。
だけど、社会に出で働き様々な試練を乗り越えている内に段々と感謝が、深まって来た!と言ってくれています。
親としてこんなに嬉しい事は、有りません。
息子も私を頼りにしている限り私も勉強するべき事は、沢山あります。
幾つになっても、常に勉強する気持ちは、怠りたくありません。
この勉強とは、国語、算数、理科、社会の様な勉強だけを指している訳では、有りません。
もちろん、するに越した事は、有りません。
が、私の言う勉強とは、世の中に生きている人間としての躾でマナーの事です。
茶道やお花の様なマナーとも違います。
人としての躾は、常に個々が持ち又、怠らない様にする事です。
挨拶の角度や方向等と、言う硬いものとも、少し違います。
常識の中、自分も大切!だけど、同じ位人も大切!と思って生きる事です。
そこからはみ出したりしなければ、良いのです。
見て見ぬふり。
自分の事で無いから関わりたくない精神では、ダメだと思うのです。
しかし、自分の事も出来無いのに他人の事は、出来無いと、言う考えは間違いでは、無いと、私は、思っています。
先ずは、自身です。
けれど、自身の事が、出来る様になった時に、他の人の事も思ってあげる気持ちが、備わっているものにので、本当は、気づいていないだけかも知れないのです。
自身の事が、出来る様になった中に、ほぼ同時に他人の事が、出来ると言う特典つきなのです。
しかし、他人の事が、出来無くとも罪では、有りません。
先ずは、自身の事が、しっかりとこなせる様になる事が、重要ですから。
自身の事を大切にする人には、他人を大切にする事が、気持ち良いと思っている事が、ついて来ている事は、しばらく経ってからでも、構わないんです。
先ずは、とにもかくにも、自身のマナーをしっかり遂行して1つ1つのマナーが気持ち良い事だと気づくのです。
自身が、気持ち良く生きる事は、人として生きる最高の至福の時でご褒美です。
いちいち、マナーを遂行する度に、感動するものでは、有りません。
例えは、青信号で、横断歩道を歩いたら、と言って感動する人は、少ないです。
しかし、赤信号なのに、1人位構わないと突っ込んだばかりに車なら、事故やケガの元になりかねません。
1度成功したらドンドン気にしなくなり、事故やケガの確率が高くてなってしまうのです。
又、人と言うものは、その事で上手くこなせても、そうした勘違いは、ドンドンエスカレートして行きあらゆる事にブレーキが効きにくくなって行き易くなります。
出来だけ基本に生きる方が、結局楽に生きれるんだと気づくのです。
だからこそ、幼い子供の頃、横断歩道で、横断歩道の渡り方を教え、出来る様になったら、思いっきり誉めてあげるのです。
自身の為は、元より子供の事故やケガが、減る事。
又、年配になり身体が不自由になり、赤信号で歩き出すお年寄に声をかけ一緒に横断して上げれば、感動が芽生えます。
平和と安全が芽生えて来ます。
人の事とは、特別な事を考える事では、有りません。
生きている日常の生活の中にある様々な事に通じる大切なitemアイテムのです。
私自身、沢山の事が、進んで出来ている訳では、有りません。
災害復興に進んでボランティアに参加した事も有りません。
だけど、老若男女こぞって、震災に駆けつけ、復興に参加する人を見ると感動を覚えてます。
しかし、そんな災害中、泥棒をする人もいる!と聞いてびっくりさせられます。
同じ人間なのに、復興に参加する人。
泥棒する人の違い!それは、なんなんでしょうか?やはり、自身の中に有るの『幸福感』のスイッチの違いだと思うのです。
こうした幸福感も生まれながら持ち合わ人もいれば、躾の一端から学んでゆく人もいると思います。
生まれながらに、持ち合わせた人は、別としても、本来は、親が子供に教えてあげるべき大切な事だと私は、思っています。
大したことでは、有りません。
きちんと教えてあげる事は、親子のコミュニケーションとして深めて会話する中に盛り込ん行けば良い事です。
始めら、災害復興のボランティアの話しをする必要は、有りません。
自身に置き換えても、行けて無いのですから、話しさえした事も有りません。
けれど、正しい事を常にきちんと教えている子供の頭、身体には、しっかり根付いているのです。
そうして、困っている人を助ける事が、気持ち良い事に繋がる。
と言う事です。
ただ、災害復興にボランティアをする事だけが、救援では、無いのであらゆる可能性にも施す事が、出来ると思います。
又、ボランティア活動よりも何より、自身が人を慈しむ気持ちが、あれば、それも大切な支援だと私は、思っています。
心から復興を願う思いは、清く偉大な事だと私は、思っています。
人が、人を思う気持ちは、何より、尊いからです。
心からの思いが、もたらす事。
その事自体が正に躾です。
美しい身体に、なると言う事です。
私達の周りのまだまだ、マナーを知らない人が沢山いる事も事実です。
私は、先ずは、自身の息子の限り無い教育チェックと甥っ子への起動修正だと思っています。
何より、甥っ子自身が不幸だと思っていない事です。
わざわざ、甥っ子に、不幸だと気づかせるつもりは有りません。
ただ、マナー違反が不の連鎖に繋がると言う事には、私の時間が有る限り気長に教えてあげたいと思っています。
息子に『諦めずに教えてくれたから、』の言葉が、今の私の励みになっています。
息子も甥っ子も大切な、未来の貴重な1人1人です。
ただ、兄夫婦は、どうするべきか?更には、年を重ねた私の母親に、どう伝えるべきか?やはり、年は関係無い。
分からない人は、子供中の子供と同じ。
分からないのだから、分かった方が、幸せに近い筈です。
人として生まれた以上、人としての感動を沢山感じてもらいたいんです。
私には、息子は、1人です。
が、息子だけが、幸せならそれで、良い訳じゃあ無い。
子供の親になって、出産すれば良い訳では、無い。
人の親となった以上、子供の責任は、一生続くと言う事です。
ただ、好き人と結婚して、妊娠、出産すれば良い訳では、有りません。
子供から絶大に信頼される為には、先ずは、自身が常に清くなければならないと考えます。
家庭の中で、他人の悪口や不快な事を伝え無い。
先ずは、人様の事を見下さない。
本当に、常に清くいなければ子供は、敏感です。
そうした事は、私達親の資質を問われているともいえます。
私自身も子供に、おかしな行動や発言を指摘されたりもします。
その時、子供に『ありがと、良く教えてくれわね。
母さんが、間違っていたらドンドン教えてね』と言う事です。
子供に教えられる事も沢山有ります。
そして、何より、親だって間違うと言う事です。
親が偉く子供が、常に劣っている訳では、有りません。
子供達の成長の方が、遥かに早い速度ですから子供から教わる機会も年々増える場合も有ります。
その時子供が、親をばかにしたり子供を偉そうにと思う事もなく、分からなかった事が、分かる様になった喜びを何倍も祝福出来る様になります。
綺麗事を言うつもりは、有りません。
私達親子も山の様にケンカを繰り返しました。
しかし、子供が、私より少し成長してくれた時、『ごめんなさい』と素直に謝ってくれる様になった時期が、来ました。
確かな成長です。
母さんも間違えていたね。
と、更に言う事で、この家に産まれて来て良かった。
と、子供が、感じた瞬間だったと、言います。
子供が、産まれて来て良かった。
この家の子供で、良かった!と、言う言葉が、何よりのご褒美です。
だから、人間の基本は、やはり、子育ての中で常々伝える事が重要だと言い切れるのです。
どんな子供も幼い頃は、本当に素直で綺麗な心で産まれて来ています。
その事を、疑う人は、いません。
要するに、成長する段階で変色して行くのです。
同じ変色するなら、幸福感動のCOLORにしてあげるべきです。
イジメや問題が、終わらないのは、個々の心が、長い間風邪をひき治し方も忘れたからです。
長い間風邪をひいているのですから、簡単には、治らないかも知れないけど、根気良くすれば、必ず回復するのです。
私は、女性として生まれて来て普通に結婚して、妊娠して家庭を持ちました。
その事を普通の幸せと言うのです。
が、本当の幸せとは、きちんと躾、マナーを習得した事が、芯の幸福と言うのだと思っています。
心が風邪を引いたままでは、芯から幸福だとは、言えないのです。
人生1度きりです。
同じ生きるなら、気持ち良い生き方が、やはり、良いです。
これまで、出産した女性ばかりが幸せで、結婚も出産もしていない人が不幸だと言っている訳では、有りません。
多分、息子がいたら『読んでいたらそう聞こえるから、修正しなさい』と言う筈です。
確かに、誤解されるかも知れないけど、これに関して言わせ頂けるなら、出産した女性の責任は、そこから永遠に子供の教育をするべきだと思う!持論です。
結婚なさらない人生!子供に恵まれいない人生!それぞれも不幸では、有りません。
幸せの在り方は、それぞれの価値観で良いのです。
ただ、マナーと言う躾は、親の責任が、ほとんどだと思うのでしっかりとして良い世の中にして行きたい、と言う事です。